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シン・オリンピック考(2)

シン・オリンピック考(1)から続く) 前回の記事投稿からこれまでの間に、東京五輪の競技会場がほぼ全面的に「無観客」で行われることに決まったという、前代未聞の事態へ推移した。もうムチャクチャである。だったら最初からやめとけよというほかないが、それでもやらないわけには行かない方々がいるのであろう。

さて、この項では、オリンピックを筆頭とした世界的なスポーツイベント、その関係機関と、出場するアスリートの関係性について考察してみたい。

あるスポーツでダントツに強いアスリートがいたとする。当然のごとく全国大会でも優勝、日本一となれば、次は世界だ。ドラゴンボールの悟空ではないが、「世界にはもっと強えヤツがいるに違いない、そいつらと闘いたい、オラ、すっげえワクワクすっぞ」という思いは、どの競技でも同じであろう。

ところが、世界大会ともなると、おいそれと開催できるものではない。開催地をどこにする、施設は、ルールは、審判は、予選は、と事前に用意すべきことが山ほどある。そして何よりも多額の費用がかかる。とてもじゃないが、一アスリートの力だけでできる代物ではない。

そこで、競技団体やスポンサー企業、マスコミの出番となるのである。世界一レベルでのスポーツの模様は、それ自体が至高のエンターテイメント素材でもある。要するに、競技場に観客が喜んで金を払って見に行き、世界中の視聴者がテレビの前で固唾をのんで見守る。CMでも流せば何億という人々が目にするであろう。世界大会の実施に必要な多額の費用を負担する代わりに、それらを商売のネタにさせていただきますよ、という算段だ。

ただ、これが行きすぎることの弊害が出てきてはしないか、と近年感じるようになってきた。端的に言うと、あるスポーツの純粋なナンバーワン決定戦というよりも、「感動ポルノ」の押し売りの格好の素材として費消されるだけの存在になっていやしないか、ということである。具体例を上げれば、高校野球の全国大会や正月の箱根駅伝である。

もちろんこれらの大会に出場するアスリート達に罪はない。そこでひたむきに闘う姿は視聴者に感動を呼び起こす。ハラハラドキドキの筋書きのないドラマだ。しかし、これが行きすぎると、感動を与えることが自己目的化してしまい、報道側の過剰な演出や、アスリート側も「あの大会に出て自分もテレビに映りたい」ということが目標となってしまったら、果たしてそれは本当にいいことなのだろうか。

大部分の競技が無観客となる見込みの今回の東京オリンピックに出場予定のアスリート達に問うとすれば、競技会場での観客からのワーキャーの歓声が無かったとしても、世界中のよりすぐりのライバル達と闘えることはワクワクしますか、さらに言えば、もしこれのテレビ中継すら無かった場合はどうでしょうか、である。

実は、現在のオリンピックは、ギリシャの古代オリンピックになぞらえたものというよりも、古代ローマの剣闘士の決闘に近しいものになっているのではないだろうか。ローマの剣闘士のイベントは、皇帝が民衆に娯楽として施したものであり、出場する剣闘士の多くが奴隷階級だったそうである。運良く勝ち残り生き残って名声を得たら、奴隷から解放され一般市民となる道もあるのだが、あの歓声が忘れられず再び剣闘士になる者も相当数いたそうである。

今回の東京オリンピックのコロナ禍での開催の是非が問われた際に、特に開催反対の意見の人の一部が、アスリート達に対して非難したという話を聞いたが、これはお門違い、筋違いもいいところである。アスリート達は鵜飼の鵜だ。鵜飼のショーの開催是非を鵜に問い詰めても意味がない。問い詰めるべき相手は鵜匠である。

さはさりながら、一アスリートがスポンサー企業無しでその競技一本で食っていくのは現在のところほぼ不可能だ。ただ、インターネットの普及とそれを活用したプラットフォームの利用で、企業だけに頼らない、アスリートがファンから直接収入を得る道ができるのではないかと考える。

具体的には、オンラインサロンのようなもの、あるいは動画配信の投げ銭のようなものである。また、クラウドファンディングもある。今のところこれらのサービスには怪しいものも結構見受けられるが、プラットフォーマーが公正でクリーンな運営をすれば、あるいはオリンピック強化選手に認定されることなどを要件に、それへの寄付を税制優遇の対象とすることなどによって、普及する可能性はある。

また、世界大会の中継も、「テレビ」一本に握らせるのではなく、分散化してネット中継にすれば、例えばオリンピックが米NBCの意向でクソ暑い7月末から8月にかけてという開催時期縛りに遭っている現状を打破する可能性がある。そもそも、オリンピックで全ての競技を限られた期間限られた場所で一斉にやろうということに無理があるのであって、ある4年間の間に開催される世界大会のいずれかを「オリンピック指定」としたうえで、それぞれの競技ごとにベストの時期、ベストの場所で開催して、4年間の期間満了時に総括的な閉会式(兼次期の4年間の開会式?)のようなイベントをやりゃあいいんじゃないかと思う。

言いたい放題放言したが、今回のコロナ禍が、スポーツにまつわるあれこれを大前提から見直す機会になれば、それはそれで意味のあることになろう。少なくとも私は、従前のようにオリンピックを何も考えずただひたすらにワーキャー言って観戦する、ということは無さそうだ。

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