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父還る

7月下旬、父が亡くなった。享年76。

その1ヶ月ほど前に、胃がんが見つかり、しかもステージ4の末期、肝臓にも転移していて、ほとんど手の施しようがない状態だった。それでも一応抗がん剤治療はチャレンジするということでやってはみたが、1クールも終えないうちに体調が悪化し中止。痰が出せずに誤嚥して肺にたまり、肺炎を起こして多機能不全というのが直接の死因となった。告知時点から、長くはもつまいと覚悟はしていたが、予想をさらに上回ってあっという間に逝ってしまった。

がんについては、さらに遡ること3年前に肺がんが見つかり、早期だったため3葉を摘出するだけでその後は再発もなかった。その後腎臓がんも見つかったが、これも早期で部分切除により切り抜けた。以降経過観察も続けていたが、胃がんはノーマークだったとのこと。そもそも肺がんが胃がんに転移することはないそうである。確かに、診断では胃がんが原発(転移ではない)となっていた。従って、あるがんの経過を見ていたとしても、全てのがんをチェックするわけではないので、他のがん予防のためには別途人間ドック等で検査は必要なのだそうだ。そんなこととは知らなかった。

抗がん剤治療のため父が入院した際、親戚が見舞いに訪れたが、うちの家族は育児等が慌ただしいこともあり、行くのが遅くなってしまった。ほぼ毎日付き添っていた母に、うちの家族はまだ来ないのかを聞いていたそうだ。ようやく一家4人そろってお見舞い。結果として、このときが意識があるうちに会えた最後の機会となった。長男は衰えた父(長男から見ればじいじ)の姿におびえたのか、ちゃんと向かい合おうとしなかった。後ろ向きの頭を父になでてもらった。次男は無邪気なもので、超笑顔で父とハイタッチをした。このとき、心なしかずっと無表情だった父の顔がほころんだように見えた。そして、お見舞いの帰り際に、それまでほとんど無口だった父が大きな声でバイバイ、と言った。その時点では、ああ、まだもう少し元気が残っている、と思ったのだが、後から振り返れば、これが最後のお別れの挨拶だったのだろう。そこから一週間も経たないうちに最期を迎えた。

医師から臨終を告げられた後からが一気に慌ただしくなった。病院側から、遺体はどの葬儀会社に何時に引き取ってもらうのかを即日連絡せよと求められた。想定外に早い死去だったため、まだそこまでは決まっていなかった。病院から示されたいくつかの葬儀会社のリストには目もくれず、市役所の斎園課に駆けこんで、葬儀の日程等を押さえて申し込んだ。高槻市では市営葬儀と言って、葬儀会社を通さずとも自らで市営葬儀場を利用した葬儀のサービスを受けられるのだ。そのサービス一式の中に、遺体の搬送も含まれている。供花とか食事のサービスなどはそれぞれのカテゴリごとに相手の事業者を選んで、どういう内容にするかを指示する必要があり面倒だが、民間葬儀会社に丸投げの場合なら相当抜かれているであろう中間マージンが発生しないので、総額としてはかなりリーゾナブルな費用で済ませることができた。そもそも父は生前、墓は要らない、葬式も要らないと言っていたそうだが、さすがにそうもいくまい。長男である私が喪主となり、ごく少数の親戚のみでささやかに行う家族葬を行うことにした。自分や相方の職場からは弔電のみ受け取るということにした。

うちには菩提寺もなくどこかの檀家にもなっていないので、宗教者をどのお寺に頼むかも決めなければならない。ただこれには心当たりがあった。実家のすぐ近くにあるお寺がうちの宗派と同じ浄土真宗本願寺派であることを知っていたので、そこへ連絡。通夜・葬儀とも日程OKだった。そのお寺には、父がいよいよとなったときに事前に話をしにいこうと思っていたのだが、その暇もなくそのときが来たので、ご住職とは一度電話でやり取りしただけで直接会うのは通夜の日が初めてとなった。

通夜の前に少しご住職と話をしたのだが、お寺を指名した理由として、以前実家から学校なり会社なりに通うための駅との往復ルート上にそのお寺があり、お寺の前に掲げられていたひとこと法話も時折見ていたからだと話すと、「それもご縁ですね」と言われた。浄土真宗の考え方では、亡くなった人は皆必ず浄土へ行けるのだそうだ。葬式や、七日ごとの法要などは、亡くなった人とのご縁を確かめる機会であって、それで故人が極楽に行けますようにとお願いするものではない(そもそも誰でも行けるのだから)とのことだった。だから浄土真宗では、戒名と言わず法名と言ったり、六文銭を額の裏に貼るようなことはしないのだそうだ。他の宗派と比べても戒律等あまり厳しいことを言われず、ざっくりいえば「ゆるい」のが特徴のようだ。そのかわり、亡くなった人とのご縁を、有り難かったことだなと日々振り返り感謝するようにしてください、という考え方のようだ。自分の考え方ともしっくり合う感じで、救われる思いがした。

通夜の後は、父のきょうだいを中心とする親族で会食。これも市営葬儀場の中で行える。借りた会場が、家族葬向けの小規模な部屋のため全員は泊まれないので、子供(父から見れば孫)たちはそれぞれ実子でない方の相方がいったん自宅へ連れて帰り、遠方からの親族にはホテルに泊まってもらって、そのまま泊まったのは母と妹と母方の叔父と自分の4名となった。部屋の空調の設定がまずかったのか、寝苦しい夜だった。あまりぐっすりとは眠れず、夢も見なかったように思う。

翌日はお葬式。といっても、通夜の時の親族とほとんど顔ぶれに変わりはない。一通り式が進行し、出棺の際には、酒が好きだった父の口にビールを含ませてやった。また、喜多郎の「シルクロード」の曲が好きで、生前にも、もし葬式をやるならその曲で送り出してほしいと母に伝えていたそうなので、手持ちのタブレットにダウンロードして会場の音響機器につなぐことで曲を流した。せめてものはなむけとしてやれることはやったつもりだ。

火葬場は市営葬儀場のすぐ横にある。というか火葬場の隣に市営葬儀場が整備されたので、ここで行った葬式の後は霊柩車も不要でそのまま歩いて向かう。炉に点火するスイッチは、私と長男で一緒に押した。父が荼毘に付されている間、再度式場に戻って親族と会食。それにしても父方の家系は酒に強い人が多い。

しばらくして、また火葬場へ移動してお骨拾い。案内係の人の話では、父の骨はその年齢の割にはかなり丈夫だったらしい。高齢になると、骨がもろくなって、焼け落ちるときの衝撃で粉々になることが多いそうだが、父の骨は多くがその原型をとどめていた。丈夫な骨のDNA、2人の子供と4人の孫が受け継がれている。

お骨を骨壺に納めて、三たび式場に戻り、今度は初七日の法要。お経を上げる際は、経典が配られて、住職だけでなく参列者も一緒に唱和する。漢字がずらっと書かれた横にふりがなが振ってあるのをひたすら詠唱する。最初はチンプンカンプンで読むのに精一杯だったが、通夜、葬式、初七日、そしてその後の法要でも何度が目にするうちに、何となく意味が分かりそうな気がしてきた。特に、頻繁に詠唱する「正信偈(しょうしんげ)」というお経が気になったのでいろいろ調べてみると、専門家から怒られるのを承知で超ざっくりにいうと、親鸞聖人の教えで、生前の行いがどうこうとかに関係なく、人は誰でも阿弥陀如来さまに救われて浄土へ行ける、そうなるためには、そうであると信じること、ただそれだけでいいのだ、という趣旨であると理解した。浄土真宗が広まったのも、こうした分かりやすさ、戒律等の無理強いをしない、先にも述べたがこのような「ゆるい」ところが多く庶民に受け入れられたからなのだろうと思った。

実はこの日、台風が接近しつつあったのだが、一連の葬儀を終えて親戚が帰り着くまでは大丈夫だった。また、自分は父危篤から葬儀まで3日分休暇を取ったが、たまたま重要なイベント等入っておらず仕事への影響も軽微だった。これも、ご縁があった、おかげさま、ということなのだろう。市営葬儀場での葬儀を終えた際、式進行をしてもらった係員の方から、最後に「お疲れの出ませんように」という挨拶を受けた。このような言い回しがあるのだな、とこの歳になって初めて知った。

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平成30年大阪府北部地震(2)

平成30年大阪府北部地震の記事続き。地震当日からだいぶ経ってからの投稿のため、その後の報道等も含めての検証を中心とする。

まず今回の地震の震源について。当初はてっきり有馬・高槻構造線(阪神・淡路大震災を引き起こした活断層の延長線上にある断層帯)が動いたものかと思ったのだが、震源地はそれよりも若干南にずれていた。また、震源地よりも若干離れた茨木市内でも被害が大きかった。

180718_asahi地震から1ヶ月後の7月18日付朝日新聞の記事によると、震源では2つの異なる断層が別方向に動いたとみられるとの解析結果が載っていた。

その記事に載っていた図によると、震源から北寄りに向かって逆断層が、震源から西寄りに向かって横ずれ断層が動いたということである。この、西に向かって走った揺れが、茨木市内での被害につながったのではないかと思われる。

また、地震の翌日、6月19日付の毎日新聞の記事(有料)によると、地盤の軟弱さが揺れを増幅させたのではないかとの解説が述べられていた。以下その記事に載っていた震度分布の図だが、震源から近いところだけでなく、やや離れた場所でも震度6弱とされている地域があることがわかる。
180619_mainichi

地盤について調べていくと、住所ごとに地盤の揺れやすさを示す朝日新聞の記事があることがわかった。これは東日本大震災を受けて作られたページのようだが今でも健在で、住所を入れると丁目レベルの細かい単位で、元々どのような地勢の土地だったのかと揺れやすさの指数を示してくれる。

これによって自分の住んでいる地域を調べてみると、意外にも「砂礫質台地」と表示され、それほど軟弱ではないことが分かった。そういえば自宅を建てる際、地盤のボーリング調査をしたが杭打ちは不要という調査結果だった。一方で、ブロック塀が倒れて女児が亡くなった地点の地盤を調べると、後背湿地で非常に軟弱と表示された。

Old_osakabayこれでふと思い当って、さらに大阪湾(というか大阪の海岸線)の変遷を調べてみると、大阪市住吉区が載せている資料(PDFファイル)の中に左のような図を発見した。これは縄文海進と言われる海水面上昇が起こっていた頃の海岸線(そのうち約5500年前のもの)で、現在の大阪平野は大部分が海の中に没しており、わずかに上町台地のみが半島状に付き出していた。一方で高槻付近を見ると、現在の淀川沿岸一帯はこれも海中あるいは河口のあたりとなっており、ただしそのすぐ北側に「富田台地」と書かれた陸地があった。先の地質を示すサイトで「砂礫質台地」と表示されたのは、たぶんこれだろう。

そういえば、以前に地元自治会の集まりがあった際、年配の方々が雑談しているのを漏れ聞くところでは、地質関係の学者さんが「地震に関してはこの町内は大丈夫だ」と言っていた、ということを思い出した。その意味するところは、たぶんこのことを指していたのではないかと考えられる。

Takatsuki_oldmap
次に、大阪近辺の古地図(明治時代後半)をたまたま目にする機会があったので、高槻付近を改めて確認すると、まだ高槻市に合併する前の当時の村々が点在しているのだが、その中でもひときわ大きい集落となっている富田村は、先の大阪湾変遷で見た「富田台地」のちょうど南の縁の部分にあたるのだということが分かる。台地の縁は伏流水からの水を得ることが容易であり、だからこそ今でも酒蔵がある。

その一方、富田村から南東方向は、田畑と思われる平地が広がっているが、集落は見当たらない。おそらくは、ひとたび淀川や芥川、如是川が氾濫すれば水浸しになる低湿地だったので、田畑はできても家は建てられなかったのではないかと考えられる。しかし、現在はどこもかしこも住宅街となっている。この辺の話については、自然災害・地域防災対策支援センターというNPO法人のサイトに載っていた「大地震や大雨から守る 安全な地盤」-高槻市域で宅地・住宅に適した地盤の見分け方-という資料(PDFファイル)にも詳しく述べられている。

180620_mainichiところで、地震の2日後、6月20日に掲載された毎日新聞の記事(有料)によれば、今回の地震波は「極短周期」というタイプで、多くの家屋が倒壊した阪神大震災や熊本地震に比べると、家(1・2階建て程度の木造家屋)よりもブロック塀や家具の方が共振しやすい性質を有しているとのことであった。確かに今回震度6弱という強さにもかかわらず家が倒壊したという被害は聞かれなかったが、他方で屋根瓦がやられた家が多かったのはこのことが原因であると思われる。

ということで、いろいろ調べて見ると、今回の地震が震源地間近だったにもかかわらず、我が家では皿一つ割れなかったのは、これらのような背景があることが分かった。そもそも4年前に自宅を建てた際、最重要コンセプトは、来るべき南海トラフ巨大地震に耐えること、無傷は無理にしても、家にいて死ぬことはないこと、が最低条件であった(参考:本ブログ記事「新都造営の経過(その2)」にトラックバック)が、それに向けての格好の抜き打ち検査の機会にはなったといえる。秘策「制震テープ」は十分に機能していたようだ。

逆に言うと、今回の地震ぐらいでやられているようだと、「本番」の際は目も当てられない事態となることだろう。上に示したように、かつて海の底だった軟弱な地盤に、今や何百万人も住んでいるということをよく認識する必要があると思われる。

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