理不尽な死を防ぐために
今日で東日本大震災から5年となった。既に何事もなかったかのように流れる大部分の日常と、被害を受け時が止まったままの人や場所との落差がますます激しくなっている。あの震災以降、子を授かり、祖母が亡くなり、また子として生まれるはずだったがそれが叶わない経験をしてきた。今回は「死」について少し思いを馳せたいと思う。
当たり前のことだがつい見過ごしがちな厳然たる事実として、人はいつか必ず死ぬということがある。それは人に限らず有性生殖という戦略を採った全ての生物の宿命である「寿命」だと言うことは以前にも述べた。1年後、10年後に死ぬ確率は一般的にはきわめて低い。だが一方で(いま40代なら)100年後に死んでいる確率は100%であろう。だからこそ、同じ生命保険でも定期と終身とでは、計算の基となる掛け率等が全く異なるのである。それなのに、なぜ人はなるべく長生きしようとするのか。この世に残したいと思う、自らの遺伝子、知識、技術、芸術作品、財産、名誉などがあるからだろうか。それとも不可能とわかっていながら不老不死に対する未練がどこか深層心理に潜んでいるのだろうか。
ここで一つ思い当たるのは、災害や事故、病気などにより突如襲いかかる死に対しては、人は全力でそれを回避しようとすることだ。なぜなら、それらの死は理不尽なものであるからだ。家族、自分を頼っている人、親しい友人、やり残したことを置いて死ぬわけにはいかない。だからこそ、救急隊員は懸命に救命を試み、医師は病気を治そうとするし、様々な安全に係る技術や法規制は、事故等により生命が失われることを避けるために考え出されているのである。理不尽な死の最たるものが、災害と戦争(近年ならテロも)であろう。
若干話はそれるが、最近ニュースで見かける、高齢者介護、とくに老老介護での介護疲れによる肉親の殺害事件は心の痛い話である。前段の説によれば、殺人も理不尽に死がもたらされるからこそ法で禁止されているのであるが、このような事件でその殺人が果たして理不尽といえるのかはよく考えなければならない。理不尽なのは、そうした老老介護を一人で背負い込まないといけないような状況に追い込ませる社会のあり方そのものではないかと問われているのだと思う。また、寿命の話に照らせば、単に長生きするだけでは幸せとは限らない、ということだろう。
震災に話を戻す。大地震や大噴火を止めることはできない。予知も今のところはできない。だが、工夫を凝らすことで、災害が起きても死なない可能性を高めることができる。阪神大震災では、地震の瞬間に家が潰れて亡くなった方が多かった。これは、家の耐震性強化や、そもそも家を建てるべきでないところを避けることである程度は防げただろう。また、停電が復旧したことが原因で火災が多発したという状況も明らかになってきた。これも耐震ブレーカー等である程度は防げよう。東日本大震災では、地震そのものではなく、その後の津波で命を失った方が大多数だった。それも、地震から避難するまでには相当の時間があったにもかかわらずだ。すぐに避難すれば助かったのにと言うのは、今となっては後出しじゃんけんだが、それでも過去の三陸地震・チリ地震などの経験はあったはずで、それらは生かされなかった。
関西方面で言えば、そう遠くない将来の南海トラフ海溝型地震は不可避であり、こちらの津波は3.11に比べて地震後もっとすぐに到達すると言われている。2万数千もの理不尽に失われた命を無駄にしないためにも、明日起きてもおかしくない大地震に備えて何ができるか、1年に一度でもいいから、この日がそれを思い起こす機会となることを願っている。
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