原発を斬る
今年もまた3.11が巡ってきた。福島第一原発の事故は未だに収束の目処が立たないまま丸3年が過ぎた。一昨年の今頃も原子力について考える記事をアップしたが、あまりうまくまとまらなかったので、続編という感じで徒然に思うところを述べる。
先月の都知事選挙で、突如原発問題を争点に掲げる候補が現れたが、あまり盛り上がることもなく、自民党が推す候補が当選した。まあ本来国政レベルで議論すべき話だから致し方ないが、かと言ってその前の国政選挙で議論が尽くされたかというとそうでもない。要はうまいことウヤムヤにされ続けている感がある。そうするうちに、「原発はベースロード電源」というスローガンを掲げてまた息を吹き返そうとしている。
とここまで書くと原発反対派と思われるだろうが、実はまだ判断が付きかねているというのが正直なところだ。というのも、客観的・理性的に判断するには情報量が少なすぎるのと、既に推進・反対を決めている人々はどちらかと言えば原理主義的にそう決めつけているので、客観的な議論、判断がそもそも難しいからである。
まず、原子力発電はコストが安いという、推進派の掲げるメリット。どこまでがコストに含まれているのか。建設する際に地元住民を懐柔するためにばら撒かれた巨額の資金。未だ確立されていない廃炉方法。今のところ行くあてのない放射性廃棄物。更には福島第一原発事故の膨大な賠償額。いずれも表に出せない、あるいは算定のしようがない金額ばかり。推進派は都合よくこれらの中身を見せず(あるいは出せず)、一方で反対派も、原子力発電以外の発電コストを明確にできず、客観的な数値では斬れないので、感情的判断で否定に走る。
次に、化石燃料はじきになくなるという、推進派の主張。確か石油ショックの際に、石油はあと30年でなくなると叫ばれたそうだが、あれから40年ほど経過した今も、石油の埋蔵量は残り30〜40年程とされたままである。産油国は戦略上正確な埋蔵量を明らかにせず、また、新たな油田の発見や近年ではシェールガス革命などもあり、結局のところ正確な残りの埋蔵量は誰にも分からない。推進派は極力これを低く見積もろうとし、反対派は逆に楽観視しようとする。ちなみにだが原子力発電の原料であるウランも埋蔵量がそんなに豊富というわけではなく、産地も偏っており、安全保障上の心配はかなり高い。
また、化石燃料を燃やすと大気中の二酸化炭素濃度が増し、地球温暖化になるという、推進派の主張。二酸化炭素濃度が急激に高くなっているのは確かなのだが、それが地球温暖化とどういう因果関係があるのかは慎重な検証が必要だ。かつてIPCCが20世紀頃から地球の平均気温が急上昇しているという報告を出し、それが契機となって二酸化炭素排出削減の取り組みがなされるようになったのだが、後にそのグラフは捏造であることが判明した。確かに地球の平均気温は緩やかに上昇しているが、それは産業革命等により化石燃料が大量に燃やされだすよりはるか前からの事象である。だとすれば二酸化炭素濃度上昇だけが原因ではなく、太陽活動量の変動など他にも色々な要因があることを加味して検討しなければならない。
一方で、自然エネルギーでの発電で電力は賄えるという反対派の主張も疑問だ。それらの割合はまだごく僅かで、原子力や化石燃料に取って代われるほどの選択肢にはなっていない。特に政策的には太陽光発電が推されているようだが、パネル製造に費やすエネルギーや発電効率からすれば、自然エネルギー界のエース的扱いには違和感を覚える。太陽光発電は、絶海の孤島とか、宇宙空間とか、あるいは災害時とか、外からのエネルギー供給が難しい場合の選択肢としてはありだが、平時に大量安定供給する用途には今のところ向いていないと思う。
ではどうすればいいのか。私の希望は、全てのエネルギーの選択肢について、隠し事なしで堂々と平場で議論し、極力客観的な判断のもと、優秀とされたエネルギーから優先的に開発リソースをつぎ込むということである。その結果もし原子力が最優秀と判断されたなら、喜んで従おう。しかし、色々調べてみた、漏れ聞く限りでは、ガチンコで議論したら、原子力はとてもじゃないがまともに立っていられない問題児に思えてならないのである。
なのになぜ日本政府は原子力推しを続けてきたかは、先の記事で分析したことに尽きる。第二次世界大戦中、米国は、実在しなかったナチスドイツの核という亡霊に怯えて巨費をつぎ込み核兵器を開発したものの、完成前にドイツは降伏。巨費は無駄でなかったと言い訳するために、まだ降伏していなかった日本に原爆を落とした。戦争が終わり、核兵器なんかいらないと言われないように、原子力発電が始められた。当時の日本はエネルギー不足に喘いでいたので、原発の生み出す巨大電力は魅力だった。米国の全面的バックアップの下で原発建設が相次いだ。ただ、唯一の被爆国という核アレルギーが懸念されたため、マスコミも巻き込んで「原子力の平和利用」という国民大洗脳が行われた。
かくして全発電量のうち3〜4割が原子力発電というエネルギー構造が日本の標準となった。決して熟慮の結果優秀だから選ばれたわけではなく、米国の思惑と日本の切羽詰まったエネルギー事情でやむを得ずそうなったのだと思われる。そしてその状態が長期間固定化されると、原発でメシを食う一大勢力(いわゆる原子力村:主要構成員=通産省(現経産省)、自民党、電力会社、ゼネコン・プラント・重電メーカー、原子力系の学界、原発城下町自治体など)が築かれ、原発そのものの要不要は考えさせないことに全力がつぎ込まれた。そりゃそうだ、熟慮の結果原発は不要なんて結論が出ようものなら、自らの食いぶちがなくなってしまう。かつての石炭や繊維、国鉄のように、見限られて路頭に迷うことは絶対避けるというわけだ。
私が気に入らないのは、公平な競争を勝ち抜いて残ったのならまだしも、疑問点ありまくりの問題児が、さもエネルギー界のエースであるかのような扱いをされ続けることである。例えるならば芸能人のドラ息子が親の威光でチヤホヤされ続けるようなものだ。
ただ、一方で、それだけを理由に原発反対と言ってしまうと、科学的裏付けなしの感情論に過ぎず、これも例えるならば、クジラは知能が高くてかわいいから捕鯨は許さぬとテロまがいの行動に走って恥じない環境過激派と変わらないことになってしまうのでよろしくない。だからこそ、原発も、原発以外のエネルギーも、包み隠さず平場で議論し、原発を採るにせよ採らないにせよ納得して判断したいと願っているのである。
さて、では原子力以外にどういう選択肢があるかについてだが、個人的な勘として、短期的には石炭、中期的にはメタンハイドレート、長期的にはバイオマスと地熱発電あたりが有望ではないかと考える。更には、ローテクの世界だが、タービン発電機のエネルギー変換効率の向上や、電池の充放電能力のブレイクスルーでも新たなエネルギー源を得たのと同等の効果があるだろう。それらの研究も怠ってはならない。
メタンハイドレートは燃やすと二酸化炭素が出てしまうが、水素を取り出し燃料電池で発電する。採取方法はまだ課題が多いが、埋蔵量は100年ほどはあるそうなので、本命登場までのつなぎとして使う。バイオマスは、食糧と取り合いにならないよう、農産物の食べられない部分や家畜の糞を燃料化する技術の確立が急務だ。地熱発電はアイスランドに成功例があるのでそれを参考にすべきだろう。太陽光、風力、小規模水力などの自然エネルギーは、災害時にピンポイントで最低限の電力確保をする手段としてはありだが、主力エネルギー源には役者不足だろう。
原子力は、放射性廃棄物の処理方法と高速増殖炉の開発が成功しない限り、主力にはなり得ない。なお、それらの開発ができたとしても、地勢上の問題で日本列島は原発に向いていない。地震が数千年単位では起きないぐらいの安定陸塊のど真ん中で、周囲数百キロは人が住んでいないようなところなら原発を建ててもいいだろうが、日本にはそのような場所はない。今機嫌よく動いている原発まで即座に廃止とまでは言わないが、少なくとも新規で建てるのはもうやめておくべきだろう。その目的はムラの住人を生きながらえさせることに過ぎない。これが今のところの我が持論である。
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