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ウィキリークスを考える

機密情報を匿名で収集し、ネット上に公開する「Wikileaks(ウィキリークス)」という組織が最近のニュースで盛んに採り上げられており、特に先日この創始者が逮捕されたということで、拙いながらも自分なりに考えた「ウィキリークス考」をひとまず述べておくこととする。

ウィキリークスの目的とは、聞くところによれば国家等が秘密裡に行っている不正行為・弾圧などを、内部告発者がリークする際に、その告発者の身の安全を守るために匿名性を保ちつつインターネット上で公開することのようだ。確かに、このような内部告発を行った者は、下手すれば犯罪者扱いをされ、さらに運が悪ければ国家から抹殺されてしまうことになりかねない。それを防ぐためにこのようなシステムを構築したということは一定の理解はできよう。

さて問題はそこでリークされる情報の中身だ。それが、本当に真実であり、今すぐそれをやめさせなければ無辜の市民の生命・財産が脅かされるという緊急事態であれば、たとえ匿名での暴露であってもやむを得ないという部分はあろう。しかし、どうもウィキリークスを見ている限りでは、その情報が真実であるか、暴露することにより救われる権利・利益と、暴露されることにより失われる安全・信用との比較考量が十分なされているかというと、そこまで熟慮したようには見えないのである。というよりも、むしろそれが本当かどうかや、その価値については、見た人が勝手に考えればよい、と放置しているような印象すらある。国家の不正を暴くと正義を振りかざすならば、その中身(とその取捨選択)についても責任を持つべきであろう。もしそれを放棄するようならば、そのリークは正義ではなく、単なるテロリズムと成り下がってしまうおそれがある。

この辺は、ウィキリークスやその支持者が、基本的に国家に対して相当の敵対心を持っているという印象を覚えることにもつながってくる。むしろ、国家など潰れてしまえとすら思っているようにすら感じられる。しかし、そもそも基本に立ち返って、国家が何のためにあるのかを考えると、全く何もないアナーキーな状態よりも、法と秩序に保たれた国家があった方が、少しでも市民が安全・安心に暮らせるはずだから、ということで成り立っているのではなかったか。しかし、その国家も、時に市民の利益に反する不正を働くことがあり得るので、それをどう防ぐかという方法論の一つとして言論の自由があり、ウィキリークスにも存在意義があると言えるのではないか。その原則を忘れ、やたらめったら国家を痛めつけることに酔いしれ、あるいはインターネットが万能であるかのような幻覚を抱き、この世がアナーキーになってしまえばいいのに、といった横暴が芽生えた瞬間から、ウィキリークスを支持することはできなくなってしまうことになる。

国家の不正を糺すには、ウィキリークスのみが有効な手段なのではなく、本来は国家の組織内部そのものに自浄機能が備えられているべきであり、それでもダメなときはマスコミ、ジャーナリズムが機能すべきものである。ウィキリークスがもてはやされているということ自体、こうした従前からあるはずの自己浄化機能がかなり低下してきているということもいえるのかもしれない。

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