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このギスギス感がある限り

先日秋葉原でまたしても凄惨な通り魔事件が発生してしまった。犠牲者の方々やその親族友人の方々には謹んで哀悼の意を捧げたい。

犯行に至った経緯や心理などはこれからの検証となるし、詳しい解説は専門家に委ねることとして、今の世の中の全体の雰囲気として前々から気になっていることを述べたいと思う。

以前からもこうした「理解に苦しむ」事件について何度かコメントをしてきた。
理解不能の行動パターン(2005/06/10)
モラルの崩壊を憂う(2005/09/26)
何のための来日か(2005/12/01)
幼稚・短絡・自己中心(2005/12/12)

これらをぼんやり眺めていて共通に浮き上がってくる思いは、いまの子供たちは、十分な愛情に包まれて育ったのだろうか、人間として当然やってはいけないこと、モラル、情操というものを十分教えられたのだろうかということ、そして、TVゲームのような機械相手ではなく、生身の子供同士で、それも様々な人間を相手に十分遊んだのだろうかということがまず第一点。

次に、働く世代となってからは、常にノルマの達成を厳しく求められ、スピードを求められ、ミスがないことを求められ、それができない者は「負け組」として徹底的に貶められ、しかも落ちれば落ちるほど指数関数的に酷い貶めを喰らうような世の中になってきているのではないかということが第二点。

さらに、交通手段が発達し、通信手段が発達し、パソコンといった事務機器も発達し、昔とは比べものにならないくらいたくさんの仕事を短時間でこなせるようになったのに、現在の人々は、時間に余裕ができるどころか、ますます忙しく働かなければならないようになっていることが第三点。

親が忙しくて子供にちゃんと向き合ってやる時間がない。先生が忙しくて子供にちゃんと向き合ってやる時間がない。そうやって育った子供が、TVゲームばかりで遊び、長じてはバーチャルなネットの世界でのみでしかコミニュケーションを取らず、働くようになれば常にプレッシャーに晒され、それに耐えられない者は負け組として次々脱落していく。

よしんばその中で勝ち組として生き残ったとして、そういう人は確かに「優秀」かもしれないが、それまでのプレッシャーの中で、少しも気を狂わすこともなく生き残れたのが果たして人間としてまともな感覚であるといえるのだろうか。そしてこういう疑問を呈すること自体「何を甘っちょろいことを言っているのだ」と憚られるような「ギスギス感」がどんどん増してきているような気がするのだ。

確かに、ほとんど全ての人がこうしたギスギスした世の中になってもまともに暮らしている。今回のような事件を起こす輩は、ほんのごくわずかの確率でしかない。ただ、ほんのわずかではあってもこうした輩を生まないような土壌にしておくことは無駄ではないと思うのだ。

少し表現が悪いかもしれないが、今回の様な事件を起こす輩は、大量生産の工業製品でいえば不良品、人間の細胞で例えるならばガン細胞だろう。やれネットの規制だ、ナイフの規制だ、TVゲームの規制だというのは水際対策、対症療法に過ぎないように思う。そもそもこのようなガン細胞を生み出さないために、その人間自体(=社会全体)が過度のストレスにさらされない健康的な生活を送ることが、最も根本からの予防法ではないかと考えるのである。

我々はいつになったらミヒャエルエンデの「モモ」に出てくる"灰色の男達"から脱却できるのだろうか。

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コメント

「モモ」は知らないのですが、肯くことばかりですね。

昨日、ドラマ「CHANGE」で言ってました。
(クラスメイトと)ぶつかって、意見を言い合って、相手の意見を理解して、そして「自分と相手は違うのだ」と理解するのだ、とか。(細かいところは違うかも)

そういうことを、学校現場でやっているのだろうか?
そういうことをやらせようとしたら、先生は大変だけどな。「まぁまぁ」で収めておくほうが絶対ラクだし。


投稿: ひらの | 2008/06/11 01:08

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