こうなったのは誰の聖火
世界各地で、北京オリンピックの聖火リレーに対する妨害活動が報じられている。中国政府によるチベットでの人権問題に対する抗議行動であることはいうまでもない。誰かが影で煽動しているのか、自然にわき上がったのかは定かではないが、宣伝効果としては絶妙の舞台とタイミングであるといえるだろう。恥ずかしながら自分自身もチベット弾圧の話ぐらいは聞いていたが、ここまで酷い状況だとは正直認識していなかった。
中国政府側は事実歪曲ないし内政干渉だという不満ありありの態度を示しているが、様々な情報を聞き比べてみる限り、中国政府側に非があるのは間違いなさそうだ。さすがにインターネット全盛のこの時代においては、いくら隠しても隠しきれないだろう。
この構図を見て共通点を思わずにいられないのは、戦前戦中の日本が行った中国大陸等への「侵略」である。こう書くとすぐさま「そら自虐史観か」と憤る向きもあろうが、しばし聞いてもらいたい。確かに当時の日本は最初から中国大陸を蹂躙するつもりはなかったかもしれない。実際既に列強諸国に占領されていた地域を解放し、一時的にせよ歓迎され軍政もうまく行っていたことを否定はしない。
しかし、である。その後様々な誤算や戦略性の欠如もあったろうが、結果として相当数のアジア地域の住民を傷つけてしまったことも(程度の差はあれ)事実として認識する必要がある。「南京大虐殺はでっち上げだ」と主張するのは「チベット弾圧など存在しない」という中国政府の態度と非常に似通ってしまうということに気づくべきだろう。問題は犠牲者の多寡ではなく(おそらくはチベットの方が酷いのかもしれないが)、現に無辜の人々が傷つけられているという事実を隠蔽してはならないということである。
するとここで槍玉に挙げるべきはチベットだけではないということになる。イスラエルがパレスチナで行っていることも「立派な」人権弾圧である。ナチスドイツからホロコーストを受けたことは免罪符にはならない。北朝鮮の金正日政権やミャンマー軍事政権も人権弾圧の超ロングセラー国家といえる。なぜセルビアだけが空爆されたのかということの意味を考えてもらいたい。要は大国やマスコミ等の都合、思惑で叩かれるものとそうでないものに分かれているだけなのである。いわゆる「二重基準(double standard)」がまかり通っているわけである。
かなり話がそれてしまったので元に戻るが、中国政府がチベットで行っていることは人として許せないことだという認識に改めない限り、聖火への妨害は続くことだろう。オリンピックをボイコットすべしとの論もあるが、むしろ積極的に出場すべきだろう。出て、出て、出まくって、オリンピックの精神は尊重する、しかし、人権も尊重する(チベットに注目する)という行動によって、国威発揚を狙ったはずの北京五輪が、注目されればされるほどチベット問題もクローズアップされるというジレンマに追い込んでやればよいのだ。
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