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死刑の是非

先日、2件の死刑が執行されたとの報道があった。
死刑については、ずっと昔からその是非について議論が繰り返されているし、国や地域によってあるところ、ないところと分かれており、ここのわずかなスペースでとても論じ尽くせるものではないが、少しだけ自分なりの考えをまとめてみた。

まず、死刑を是とする根拠として以下の点が挙げられる。
1.被害者あるいは遺族による私刑、報復が認められていない
2.犯罪者に反省・更正の見込みがなく、しかも社会に戻せば再び凶悪犯罪を繰り返すのが確実な場合
3.死刑が存在することで、凶悪犯罪の発生を抑止することができる
4.無期限で生きさらさせる方が却って酷い処遇(但しこれは疑問の余地あり)

次に、死刑を非とする根拠として以下の点が挙げられる。
1.冤罪であった場合取り返しがつかない
2.一生をかけてでも反省、更正する機会を待つべきである
3.死刑が存在しても凶悪犯罪の抑止にはならない
4.どんな犯罪者であっても人権は守られねばならず、命を奪うことまでは誰にも許されない

確実にいえることは、証拠が完璧ではなく、将来冤罪として覆る余地のある事件については死刑はしてはならない。まさに取り返しがつかないからだ。さらに、犯罪者の犯行であることが疑いようがない場合(現行犯、直接証拠等)であっても、犯罪者が深く反省し謝罪し一生を贖罪に捧げる覚悟が出来ていて、しかも被害者側が報復としての死刑を望んでいない場合、死刑を執行する意味があるのかどうかは、疑問である。

そこで問題となるのが、犯罪者の犯行が確実であり、しかも残忍凶悪、犯罪者に贖罪の意識が皆無で将来更正の見込みもなく、被害者側も報復を強く望んでおり、またもし犯人を社会に戻せば再び凶悪犯罪を繰り返すことが必至であるケースで、死刑を執行すべきか否かは非常に悩ましいであろう。

今まで死刑の是非の議論が平行線をたどってきたのはこのあたりに原因があるような気がする。理想論、一般論としては死刑はない方が望ましいに決まっている。しかし、具体的に実際に上記のようなケースがあった場合、さらにその被害者側であった場合、その理想を振りかざし続けることができるかどうかは、かなり微妙だ。

ここで一つ思いついたことは、人間社会自体を一つの大きな生命体として見た場合に、死刑は一種のアポトーシスのようなものではないかということだ。即ち、体の一部の細胞が癌化し、放置すれば他の正常な部分を次々蝕んでついには全体として死に至る危険にさらされるような場合、たとえ自らの体であっても癌化部分を切除することはあり得るということだ。

ただし、だからといって「死刑」という究極の荒い手段だけが体全体の生命・安全を守るための方策ではないということはもちろんであるし、そもそも何故癌化する細胞が生まれたかを見直す必要があるし、もとから癌化させないような対策を講じるのが第一であるのはいうまでもない。

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