首相の靖国参拝問題
今日の福岡地裁の判決によれば、小泉首相の靖国神社参拝は宗教的活動に該当し違憲、と、かなり画期的な内容であった。これを機に個人的なコメントを述べたいと思う。
まず、首相の参拝自体の是非についてだが、もし個人(私人)としての立場であれば、信教の自由という憲法的見地からして違憲云々ということはないであろう。しかし、この件に限って言えば、公用車を使っているわ、公務員を職務で随行させているわ、内閣総理大臣という肩書きを記帳するわで、およそ私人とは言い難い状況だ(唯一玉ぐし料だけはポケットマネーだったみたいだが)。この点判決は常識ある判断と言えるだろう。
だが、根本的な問題は、私人か公人か、違憲か合憲かということではなく、その参拝による内外への影響、そしてそのことによって心を痛める人がたくさんいるということに対する首相の見識が問われているということではなかろうか。さらに加えていうなら、そういう見識の人が国民から選ばれて与党の領袖、即ち首相となっているのがまた事実であるということも。
言うまでもなく第二次世界大戦で日本が国家として行った行為の結果、周辺国をはじめ多くの人々を傷つけ苦しめた。これは紛れもない事実であり、またそのことについて戦後国家的な正式な意を尽くした謝罪にあたる行為がなされたとは言い難い。だから今なお戦後補償に係る訴訟が続いているのである。これらの原告者達は、もちろん金銭的補償の問題もあるが、一言でいいから「すまん、悪かった」という国家的な心からの謝罪を求めていることの方が大きいのだと思う。
靖国神社にしても、今でこそ一宗教法人の神社に過ぎないが、その成立の過程からして、国家を挙げての戦いに参加し弊れた者達の顕彰と鎮魂の場であることに間違いはない。そしてそこを参拝する者の多くが「あの戦争は間違っていなかった、正義の戦いであった」と強く思っているのである。
もちろん、かの戦争は善悪一元論のみで片付けられるものではなく、国のために戦って死んだ者を一切慰霊するなと言うつもりもない。ただ、それをするなら、同様にその国のために殺されておそらくは恨みを持っているだろう死者達あるいはその遺族達へも思いを馳せるべきだ。
首相として参拝するのなら、その前に、かつてのワイゼッカー独大統領が行った演説のように、過去への精算をきっちり果たすべきである。それをしない以上、参拝行為は所詮大票田である日本遺族会への人気取りのポーズと取られても仕方ないのである。
一方で、この手の争訟で常に原告側に回る立場の人達にも言いたい。そうした参拝を行う人が日本の代表として国民から選ばれているのだということを大きな事実として受け止めるべきだ。行為を違憲だ違憲だと指弾するのは容易い。しかしそうした行為をよしとする人が多く選挙で選ばれないようにすることがどれだけ難しいことか。訴える相手は首相個人よりも国民全体の世論ではなかろうか。
そして最後に有権者たる国民に言いたい。もちろん今回の一件のみが選挙での争点と言うことにはならないが、国の行く末についてもっと関心を持ってもらいたい。他人事のように思うな。「どうせ自分が投票しようがしまいが世の中変わらない」と最初から諦めている者が多すぎやしないだろうか。しかしよく考えて欲しい。そうやって流れに任せたまま、声の大きい者に国の舵取りを牛耳られることによって、かつて戦争への道へ向かってしまったという歴史的事実を。
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