ココログ全面リニューアル、その後

前回の記事でココログ全面リニューアルを報じて、リニューアル後の状況を見てみると結構酷い状況のようだ。
リニューアル時の不具合について(お知らせココログより)
ログインできない、という論外の事態はさすがに解消したようだが、まだほかにも、画像が表示されない、表示されても大きさが変、改行が反映されない、リッチテキストの編集画面でコピペができない、など相変わらず論外の不具合が続いているようである。
いまこの記事はデスクトップPCで編集しているから大丈夫なのだが、タブレットで見ようとすると「URLが存在しない」というエラー画面が頻発する。タブレットのブラウザ(クローム)の設定を「PC用」に切り替えると直る場合もあるので、以前にPC用とスマホ用でサーバが異なっていた仕組みの影響を引きずっているのかもしれない。
まあ、滅多に更新しない現状では大して困りはしないのだが、一応は月額250円も払ってやっているのだから、しっかりやってもらいたいものである。

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ココログ、全面リニューアル

このブログでも利用している、@niftyの「ココログ」が今度3月19日に全面リニューアルされるとのお知らせが掲載されていた。

「ココログ」全面リニューアルのお知らせ(2019/3/19)

近年のSNS興隆(といっても、SNSの中同士(mixi、Twitter、Facebook、Instagram、TikTok…等)でも栄枯盛衰がかなりのハイペースではある)に比べると、ブログは低調であり、最近では老舗だった「Yahooブログ」や「はてなダイアリー」も終了という状況である。その中で、ココログは「終了」ではなく、リニューアルして存続、というのでもまだありがたい話なのかもしれない。

主な変更点としては、スマホ用画面とパソコン用画面の違いがなくなり同一のURLとなること、ガラケーが使えなくなること、トラックバックの終了、などである。いずれも時代の趨勢で仕方ないかなあ、というところ。

それにしても2003年12月にこのブログを始めてからはや15年余り、掲載記事数は2000件を超えた。最近では更新頻度もめっきり少なくなってしまったが、いつまで続くのか、いつまで続けられるのか。ココログが、あるいは@niftyが未来永劫続くとは思えない。この書き溜めた記事も、科学的にも歴史的にも文学的にも価値のないものではあるが、もしできたら子供や孫たちに、お父ちゃん、お爺ちゃんはこんなことをしたり考えたりしてたんやで、という記録としてぐらいは残せないものかと考えている。

まああと100年ぐらい経って、この記事が何らかの形で後世に残せていて、100年後の誰かがこれを目にしたとき、当時の一般市井の人々の暮らしやものの考え方はこんなんだった、という手掛かりになるのだとすれば、民族学的価値ぐらいはあるのかもしれない。

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駅伝大会2019

190309_1今年もまた、職場の駅伝大会で鴨川河川敷を訪れた。非常に良い天気に恵まれて暖かい。昨年同様今回も部内の連合チームからお誘いがあったので、その一角に加えてもらった。そして今回は裏エースの5区に回らせてもらった。

今までとちょっと変わったと思ったのが、河川敷の舗装。これまでは砂利道だったと思うのだが、今回からアスファルトでもなく、土っぽい質感ながらもかっちりと固められた、走りやすい舗道となっていた。ただしそれは鴨川右岸のみで、左岸側は相変わらずの砂利道、一部水たまりあり、だった。

190309_2さてレースの方は、エース区間の1区が一桁台の順位で帰って来たものの、その後の若手走者らがいまいちピリッとせず、順位を落とし気味。5区に回ってきたときは10位前後ぐらいか。といいつつ、自分も今年は全く練習しないまま臨んだので、ペースが上がらない。前方に4、5名ぐらいランナーが見えており、走力があればごっつあんですのゴボウ抜きが可能だったシチュエーションにもかかわらず、前との差が詰まらない。ようやく1人抜いたと思ってもまた抜き返されたりと散々な走りで、タイムもおそらくは14分台後半というありさまだった。

チームは前回4位入賞だったので、さらに上を目指していたようだが、残念ながら6位までにも入賞できず。やはり練習しないとあきまへん。

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清鶴酒造

20190217_01この日は、高槻市富田にある「清鶴酒造」を訪れた。富田にはここともう一つ「國乃長」の銘柄で知られる寿酒造の2つの酒蔵があり、寿酒造については例年蔵開きなどのイベントを開催しているので過去何度か訪れたことがある(参考記事)が、清鶴酒造では蔵開きといったイベントはなく、今回が初の訪問となった。

かつては富田にはもっと多くの酒蔵があり、酒どころとして知られていた。その辺の歴史的解説は、路傍に掲げてあった高槻市教委の解説看板が述べているので、そこから引用。
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富田の酒造り
富田は、江戸時代前期に、商工業基盤や後背地の良質な米作、台地の地下水脈を巧みに利用して、寺内町から酒造の町へと変貌した。
最盛期の明暦頃(1655~58)には、24軒の酒造家が軒を連ね、8200石(米高)を超える酒造高を誇っていた。しかし、度重なる酒造制限令や、伊丹・灘等の発展で生産量は減少し、幕末では6~8軒となった。
現在は、2軒の酒造家が伝統の製法技術等を受け継いで、"地酒の味"を守り伝えている。
 昭和63年3月 高槻市教育委員会
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20190217_02この記事に画像は載っていないが、建物入ってすぐのところに瓶詰めの機械が置いてあった。話によると、元々そこにあったのではなく、前年6月の大阪北部地震で建物が被害を受け建て替えをするために一時的に待避させているのだそうだ。このほかに井戸もあったのだが、一緒に連れていた次男坊のご機嫌取りで撮る暇なし。

更に奥へ進むと、原料の酒米をしばらく水に漬けておく機械があった。ここからは画像あり。たまたま見学時にも実際に米が装填されている状態だったので、作業の一部を見ることができた。

20190217_03次は2階に上がる。途中で見えた巨大な桶は米を蒸すところだったか、これも次男の相手のため説明をじっくりとは聞けなかったので失念。

20190217_042階の作業場。蒸し上がった米を広げて冷まし、そこに麹菌を振りかけ、菌がしっかり根付くまで左にある扉の中にある保温室でしばらく保管する、ということだったかと思う。

20190217_05中2階に当たろうか、醸造用タンクの上段部分。画像には写っていないが奥の方のタンクは実際に醸造中で、ふたを開けるとほんのり甘い日本酒のいい香りが漂ってきた。なお、一番奥のタンクでは大吟醸を醸造中で、これはとても繊細なため杜氏以外は蓋を開けることすら許されないのだそうだ。

20190217_06先の醸造用タンクを1階側から見るとこんな感じ。画像では伝えづらいのだが、2階の作業場の床に一部小さい四角い穴が開くようになっていて、その真下にこれらのタンクが位置している。

20190217_07発酵が終わった醪(もろみ)を搾るための枡。まずは自重のみで嵩が減るそうだ。

20190217_08このときもちょうどこれから搾る予定の醪が入った袋が詰められていた。このように機械があるとはいっても、大規模醸造メーカーに比べればロットが小さいので、大量生産はできない。その一方で昔ながらのこだわりの製法を忠実に守り続けている。これこそが地酒の良さであり醍醐味である。

20190217_09見学の最後はお楽しみの試飲コーナー。お馴染みの「ひやおろし」はもちろん、あらばしりや濁り酒まで数種類のお酒をテイスティング。先ほど搾ったばかりの生原酒も試飲させてもらったが、雑味や荒々しさが先に立っていまいち。実際は瓶詰めして商品となるまでにしばらく寝かせて品質を安定させているそうだ。また、当主の解説によれば、日本酒は個性もいろいろで人によって相性は様々なので、自分に合った酒、自分が旨いと思える酒を見つけることが大事なのだとか。そのガイドをしてくれる行きつけの酒店があるとなおよいとのこと。

即席のお土産販売コーナーで試飲の際に気に入った日本酒と酒粕ケーキを購入。6代目当主の息子さん(小学生)もしっかりお手伝いをしていて、将来の7代目も安泰の模様であった。なお、この見学コースは有料であるが、サービスお土産についてくる濁り酒や酒粕の代金相当でトントンとなる値段だった。今回は相方の職場関係を中心に10名ほどで見学して程よい人数。2月の土日のみ要事前予約で受付、となっていたが、現時点ではホームページに見学案内ページが存在しないので、詳細は清鶴酒造へお問い合わせを。

(くりりんの問わず語り「蔵開き」にトラックバック)

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シンカリオンはいいぞ

Main20180831新幹線変形ロボ シンカリオン THE ANIMATION」は2018年1月からTBS系列で放送されているテレビアニメである。これの基となる「新幹線変形ロボ シンカリオン」は、ジェイアール東日本企画・小学館集英社プロダクション・タカラトミーの3社によって立ち上げられたプロジェクトにより開発され、アニメより数年前の2015年3月から既に展開されているとのことである。

「シンカリオン」とは、新幹線が変形した巨大ロボットであり、「巨大怪物体」という正体不明の巨大な敵に立ち向かうため、日本の夢と技術が詰まった新幹線をベースに開発されたもの、という設定である。

要するに、子供向けの、子供ウケする新幹線が出てくるアニメなんだろ、と最初は思った。ところが、である。どうもこのアニメ、表向きは子供番組として作られているが、中に仕込まれている数々のネタが、どう見ても視聴する子供らの後ろで見守っている親世代を狙ってやっているとしか思えないだろうという要素が多すぎるので、ここに記録しておくこととする。なお、東洋経済オンライン記事「シンカリオン、「鉄」は見ないともったいない」も御参考。

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中でも特筆すべきは、2018年8月に放送された、「神回」とも称されるエヴァンゲリオンとのコラボを果たした第31話である。詳細は既に東洋経済オンラインの記事(シンカリオン×エヴァ「神回」誕生の秘密)で解説されているのでそちらに委ねるが、そもそもシンカリオンの放映開始当初から、エヴァンゲリオンとの共通性(巨大戦闘ロボットを、選ばれた子供だけが操縦できる)は言われていたものの、著作権・版権・放送局の違い等の「大人の事情」という高い壁があるので、ここまでガッツリとコラボができるとは誰も想像していなかった。

さらに言うと、エヴァンゲリオンのアニメが最初にテレビで放送されたのは1995年から96年あたりと、今の子供らが生まれるずいぶん前であり、その後に劇場版などでも続いているとはいえ、エヴァンゲリオンのファン層のコアは、どう見ても今の子供らではなく、その親世代だ。コラボ回を観て喝采を上げたのは、テレビの前の子供らよりも、むしろその後ろで見ていた親の方が多かったに違いない。

この他にも、ストーリー本編からは脇道に逸れたパロディがふんだんに散りばめられている。代表的な例で言えば、12月に放送された分で、JR東海のクリスマス・エクスプレスCM完コピシーンが山下琢郎のクリスマスイブのソングと共に流れた。以下、著作権的にはグレーなのでいつまで見られるかはわからないが、YouTubeに掲載された放映時の動画等詰め合わせ。

それにしても、クリスマス・エクスプレスの深津絵里verは1988年、牧瀬里穂verが1989年って、今の親世代ですら知らん人も多いのではないかと。

他に確認できる限りでのパロディ、他作品からのネタでは、ブラタモリ(NHK)、タモリ倶楽部(テレビ朝日)、クイズミリオネア(フジテレビ)、アメリカ横断ウルトラクイズ(日本テレビ)と、エヴァンゲリオン(テレビ東京)も入れれば他局全制覇という状況である。それも、親世代ですらもう知らんかもという結構古い番組もある。いったい誰を喜ばせたいのやら。これらのパロディのクオリティも高く、全力でやっているところがすごい。この作風、何かに似ていると思ったら、2016年にTBSで放送されたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」でもクオリティの高い全力のパロディ・オマージュがちりばめられていたことを思い出した(全然観てないけど)。

こうした枝葉も面白いのだが、もちろん本編のストーリーやロボット戦闘シーンなどもお約束を押さえたうえでしっかりと筋が通っておりブレない。しかも、単純な勧善懲悪ではなく、敵側として出てくる勢力も、何やら生き残りをかけてやむに已まれぬ事情で侵攻しているという背景が見えてきており、最後に敵ボスを倒してめでたしめでたしというような安直な結末にはならんのではと感じている。そうした筋書きも昔どこかで似たようなアニメがあったなと振り返ると、「赤い光弾ジリオン」(1987年)という作品のラストを思い出した。シンカリオンは3月に本編終了予定とのことで、今後どう展開していくのかも目が離せない。まさにOPテーマ曲歌詞にもあるとおり、「誰にも止められない」シンカリオンである。

本編動画も、関係者の公式YouTubeチャンネルで、テレビ放映の1週間遅れで期間限定だが公開という太っ腹ぶりである。うち最初の第1話だけは今のところずっと公開され続けている。そのうちビデオも発売されるだろうからいつまで見られるかは不明だが、ひとまず埋め込み。保線作業から始まるイントロシーンは、かの庵野秀明氏も絶賛。ひょっとしたら、この作品も将来はガンダムやエヴァに比肩する名作として記憶されることになるかもしれない。

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高槻シティハーフ2019

190120_1今年も高槻シティーハーフマラソンに参加。地元ということで何とか出場を続けてはいるが、大会のためのランニング練習は全くできないまま。大会にせよ練習にせよ、走りに行くには、「その間の子供の面倒誰見んねん問題」が常に付きまとい、自ずと機会は激減していく。この大会では会場近くにある実家で子供らを預かってもらえるので参加し易い。ありがたいことだ。

今年の天気は小雨。前日は快晴だったのに。例によってサルの着ぐるみで走ることにするが、雨のため体育館に入るのも大渋滞だったので、受付後にまた実家に戻って着替え。移動が長くなった分、着替えて会場まで戻ったらもうスタート直前。かなり後ろの方からのスタートとなった。

190120_2スタートしたあたりから雨はほぼ小止み状態。程なくして相方に追いついた。相方も同様に全く練習できないままでの参加なので、流れに沿ってゆっくりペース。しばらくそのペースに合わせてだべりながら進む。それにしても、他の知り合いと会う機会がごく少ない。

10km通過時点で1時間5分ほど。特に故障も起きてないので、そろそろペース上げるわ、ということで相方から離れ、ここから残り11kmを55分で走って2時間切りできるかにトライ。前方のランナーをごぼう抜きしていく。しかし、ペースが上がりきったところでラップを見ても、キロ4分台後半程度にしかなっていない。残り距離と経過時間を見比べて、ああこれでは2時間切れないわ、と思いつつもそのままゴールまで走り切る。完走証のタイムは2時間2分、ただしネットタイムでは1時間59分。いずれにせよハーフのワースト記録大幅更新となった。

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さらばPiTaPaカード

18110110月下旬のある日、あまり頻繁にチェックしなくなったパソコンのメールを見ると、三井住友カードからの利用明細に関する連絡が入っていた。ふと気になって、Webサイトを確認すると、何と年会費の請求がエントリーされていた。このクレジットカードは、PiTaPaとセットになった阪急のエメラルドスタシアカードで、運営は三井住友が担っている。最近はもっぱらJR西日本のJ-WESTカードとICOCAの組み合わせでしか使わなくなっているため、こちらのカードを使う機会はほとんどなくなっていた。

PiTaPaに関して言えば、年間に一度もPiTaPaの使用がないと年会費1000円が取られることは認識していたので、年に1回はICOCAではなくPiTaPaで電車利用をするよう気を付けていたつもりだった。さらに言うと、この年の10月からJR西日本でもPiTaPa利用がポストペイになる、つまりICカードにチャージしたお金は使う機会がほとんどなくなるため、1000円余りあったPiTaPaのチャージ額を無理してJRで使い切って残額0円にしたばかりだった。

それで、よくよくカード規約等を調べてみると、交通系のPiTaPaとしての年会費は前述のとおりだったのだが、クレジットカードの年会費はこれとはまた別で、初年度は無料、それ以降は年に一度でもクレジット利用があれば無料だが利用がないと年会費1250円(税別)がかかるというのだ。しかも、どうやらそのクレジット利用には交通系IC利用ではカウントされず、店舗等での支払いでないとアカンということらしかった。

もはやほとんど使う機会のないこのカードのためにわざわざ買い物するのもアホらしいので、この際クレジットカードをPiTaPaもろとも解約することとした。この手続きはWebではできず、三井三友カードの窓口に電話で連絡する必要がある。平日の昼休み、電話は混んでいて結構待たされたが何とか解約手続き完了。後日届けられる返信用封筒に、裁断したカードを送り返して全て終了となった。なお、チャージ額を使い切っていたのは大正解で、もし残っていたらパーになっているところだったらしい。それから、請求予定に上がっていた年会費も、どうやらこの解約により引き落とされずに済んだようだ。

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平成30年台風21号

180904_1平成30年(2018年)9月4日、台風21号(アジア名:チェービー)は、非常に強い勢力を保ったまま12時頃に徳島県南部に上陸した。この台風やそれによる被害についての詳細は各所に記録されているのでそちらに譲ることとして、身の回りの状況などを備忘録代わりに記載しておくこととする。本記事は、便宜上台風襲来時の日付としているが、だいぶ後になってから掲載したものである。

台風の接近はあらかじめ予測されていたので、その日は早々と保育所の臨時閉鎖が決まり、またJR西日本も昼頃から全ての列車運行を止めると事前に宣言していたため、仕事も休みを取った。ところが当日朝も嵐の前の静けさ。保育所に行けず元気が有り余っている子供らを公園に連れて行って遊ばせるぐらいの平穏さだった。

しかし、昼頃から様相が一変する。今まで経験したことがないような強風が吹き荒れた。昼前からは家にこもり、シャッターも全て締め切っていたので、外の様子は見えず、音でうかがい知るしかない。何かが飛ばされて転がっていく音、飛ばされた何かが落ちてきてぶつかる音。そして最接近の15時あたりでは、時折瞬停が起きた。いよいよ停電かもと思ったが、何とか我が家は停電を免れたようだ。

180904_2
そして関西空港の連絡橋にタンカーが衝突したとのニュースが飛び込んできた。これにより関空は孤立、その後しばらくは鉄道も車もアプローチできない状態が続き、外国人観光客の激減につながることとなる。

そのほか、各地で主に強風による被害が発生した。以下はANNがまとめた投稿映像より。

消防庁の集計では、この台風による死者は13名。いずれも、強風による転落・転倒や、飛来物に当たったことが原因とみられるそうだ。これらは、外に出なければ防げた可能性も高い。さらに言えるのは、今回と似たような進路を取った昭和9年(1934年)の室戸台風で死者2000名余り、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で死者200名弱に比べれば格段に少なかった。治水が進んで洪水被害がなかったこともあるが、建物が頑丈になり、外にさえ出なければ命はまず助かるようになったのだろう。そして、JR西日本が早々と運行休止を宣言したことが、多くの人の通勤通学を最初からあきらめさせることにつながり、犠牲者の減少に寄与したのではないかと考える。「超ファインプレー」と評しても過言ではない。

さて強風が収まった夕方過ぎ、近所の人らがわらわらと外に出て後片付けやらを始めた。こちらも家から出てみてビックリ、あちこちに飛ばされてきた屋根の破片やらが散らばっている。植木鉢を外に置いたままだったお宅では、全部飛ばされて落ちて割れていた。また、カーポートの屋根が丸ごと吹き飛ばされている家もあった。その後もSNSで友人らの「ベランダの屋根が飛ばされた」「未だに停電中」といった被害報告を目の当たりにすることとなった。

180904_3振り返るに我が家の被害はどうだったというと、通過直後には被害なしという認識だったのだが、後日よくよく見ると外壁に傷が付いているのに気がついた。おそらくは飛ばされてきた何かが当たったのだろう。車に当たらなくてなくてよかった。

180904_4気がかりだったのは屋根。簡単に見ることは出来ず、これも後日だいぶ経ってから、棒の先に携帯のカメラを貼り付けて撮影することでようやく確認できた。見たところ大きな被害はなさそうだったが、これもよく見ると真ん中あたりのスレート材の端っこが欠けているようであった。まあ、この程度ならかすり傷だろう。

6月の地震で屋根瓦がズレたり落ちたりしてブルーシートを掛けている家も市内に相当数あったが、これらの多くが台風で飛ばされてしまった。修理業者も手一杯でなかなか修復が進まず、その後も長期間ブルーシートが掛かった屋根が残り続けることとなった。

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父還る

7月下旬、父が亡くなった。享年76。

その1ヶ月ほど前に、胃がんが見つかり、しかもステージ4の末期、肝臓にも転移していて、ほとんど手の施しようがない状態だった。それでも一応抗がん剤治療はチャレンジするということでやってはみたが、1クールも終えないうちに体調が悪化し中止。痰が出せずに誤嚥して肺にたまり、肺炎を起こして多機能不全というのが直接の死因となった。告知時点から、長くはもつまいと覚悟はしていたが、予想をさらに上回ってあっという間に逝ってしまった。

がんについては、さらに遡ること3年前に肺がんが見つかり、早期だったため3葉を摘出するだけでその後は再発もなかった。その後腎臓がんも見つかったが、これも早期で部分切除により切り抜けた。以降経過観察も続けていたが、胃がんはノーマークだったとのこと。そもそも肺がんが胃がんに転移することはないそうである。確かに、診断では胃がんが原発(転移ではない)となっていた。従って、あるがんの経過を見ていたとしても、全てのがんをチェックするわけではないので、他のがん予防のためには別途人間ドック等で検査は必要なのだそうだ。そんなこととは知らなかった。

抗がん剤治療のため父が入院した際、親戚が見舞いに訪れたが、うちの家族は育児等が慌ただしいこともあり、行くのが遅くなってしまった。ほぼ毎日付き添っていた母に、うちの家族はまだ来ないのかを聞いていたそうだ。ようやく一家4人そろってお見舞い。結果として、このときが意識があるうちに会えた最後の機会となった。長男は衰えた父(長男から見ればじいじ)の姿におびえたのか、ちゃんと向かい合おうとしなかった。後ろ向きの頭を父になでてもらった。次男は無邪気なもので、超笑顔で父とハイタッチをした。このとき、心なしかずっと無表情だった父の顔がほころんだように見えた。そして、お見舞いの帰り際に、それまでほとんど無口だった父が大きな声でバイバイ、と言った。その時点では、ああ、まだもう少し元気が残っている、と思ったのだが、後から振り返れば、これが最後のお別れの挨拶だったのだろう。そこから一週間も経たないうちに最期を迎えた。

医師から臨終を告げられた後からが一気に慌ただしくなった。病院側から、遺体はどの葬儀会社に何時に引き取ってもらうのかを即日連絡せよと求められた。想定外に早い死去だったため、まだそこまでは決まっていなかった。病院から示されたいくつかの葬儀会社のリストには目もくれず、市役所の斎園課に駆けこんで、葬儀の日程等を押さえて申し込んだ。高槻市では市営葬儀と言って、葬儀会社を通さずとも自らで市営葬儀場を利用した葬儀のサービスを受けられるのだ。そのサービス一式の中に、遺体の搬送も含まれている。供花とか食事のサービスなどはそれぞれのカテゴリごとに相手の事業者を選んで、どういう内容にするかを指示する必要があり面倒だが、民間葬儀会社に丸投げの場合なら相当抜かれているであろう中間マージンが発生しないので、総額としてはかなりリーゾナブルな費用で済ませることができた。そもそも父は生前、墓は要らない、葬式も要らないと言っていたそうだが、さすがにそうもいくまい。長男である私が喪主となり、ごく少数の親戚のみでささやかに行う家族葬を行うことにした。自分や相方の職場からは弔電のみ受け取るということにした。

うちには菩提寺もなくどこかの檀家にもなっていないので、宗教者をどのお寺に頼むかも決めなければならない。ただこれには心当たりがあった。実家のすぐ近くにあるお寺がうちの宗派と同じ浄土真宗本願寺派であることを知っていたので、そこへ連絡。通夜・葬儀とも日程OKだった。そのお寺には、父がいよいよとなったときに事前に話をしにいこうと思っていたのだが、その暇もなくそのときが来たので、ご住職とは一度電話でやり取りしただけで直接会うのは通夜の日が初めてとなった。

通夜の前に少しご住職と話をしたのだが、お寺を指名した理由として、以前実家から学校なり会社なりに通うための駅との往復ルート上にそのお寺があり、お寺の前に掲げられていたひとこと法話も時折見ていたからだと話すと、「それもご縁ですね」と言われた。浄土真宗の考え方では、亡くなった人は皆必ず浄土へ行けるのだそうだ。葬式や、七日ごとの法要などは、亡くなった人とのご縁を確かめる機会であって、それで故人が極楽に行けますようにとお願いするものではない(そもそも誰でも行けるのだから)とのことだった。だから浄土真宗では、戒名と言わず法名と言ったり、六文銭を額の裏に貼るようなことはしないのだそうだ。他の宗派と比べても戒律等あまり厳しいことを言われず、ざっくりいえば「ゆるい」のが特徴のようだ。そのかわり、亡くなった人とのご縁を、有り難かったことだなと日々振り返り感謝するようにしてください、という考え方のようだ。自分の考え方ともしっくり合う感じで、救われる思いがした。

通夜の後は、父のきょうだいを中心とする親族で会食。これも市営葬儀場の中で行える。借りた会場が、家族葬向けの小規模な部屋のため全員は泊まれないので、子供(父から見れば孫)たちはそれぞれ実子でない方の相方がいったん自宅へ連れて帰り、遠方からの親族にはホテルに泊まってもらって、そのまま泊まったのは母と妹と母方の叔父と自分の4名となった。部屋の空調の設定がまずかったのか、寝苦しい夜だった。あまりぐっすりとは眠れず、夢も見なかったように思う。

翌日はお葬式。といっても、通夜の時の親族とほとんど顔ぶれに変わりはない。一通り式が進行し、出棺の際には、酒が好きだった父の口にビールを含ませてやった。また、喜多郎の「シルクロード」の曲が好きで、生前にも、もし葬式をやるならその曲で送り出してほしいと母に伝えていたそうなので、手持ちのタブレットにダウンロードして会場の音響機器につなぐことで曲を流した。せめてものはなむけとしてやれることはやったつもりだ。

火葬場は市営葬儀場のすぐ横にある。というか火葬場の隣に市営葬儀場が整備されたので、ここで行った葬式の後は霊柩車も不要でそのまま歩いて向かう。炉に点火するスイッチは、私と長男で一緒に押した。父が荼毘に付されている間、再度式場に戻って親族と会食。それにしても父方の家系は酒に強い人が多い。

しばらくして、また火葬場へ移動してお骨拾い。案内係の人の話では、父の骨はその年齢の割にはかなり丈夫だったらしい。高齢になると、骨がもろくなって、焼け落ちるときの衝撃で粉々になることが多いそうだが、父の骨は多くがその原型をとどめていた。丈夫な骨のDNA、2人の子供と4人の孫が受け継がれている。

お骨を骨壺に納めて、三たび式場に戻り、今度は初七日の法要。お経を上げる際は、経典が配られて、住職だけでなく参列者も一緒に唱和する。漢字がずらっと書かれた横にふりがなが振ってあるのをひたすら詠唱する。最初はチンプンカンプンで読むのに精一杯だったが、通夜、葬式、初七日、そしてその後の法要でも何度が目にするうちに、何となく意味が分かりそうな気がしてきた。特に、頻繁に詠唱する「正信偈(しょうしんげ)」というお経が気になったのでいろいろ調べてみると、専門家から怒られるのを承知で超ざっくりにいうと、親鸞聖人の教えで、生前の行いがどうこうとかに関係なく、人は誰でも阿弥陀如来さまに救われて浄土へ行ける、そうなるためには、そうであると信じること、ただそれだけでいいのだ、という趣旨であると理解した。浄土真宗が広まったのも、こうした分かりやすさ、戒律等の無理強いをしない、先にも述べたがこのような「ゆるい」ところが多く庶民に受け入れられたからなのだろうと思った。

実はこの日、台風が接近しつつあったのだが、一連の葬儀を終えて親戚が帰り着くまでは大丈夫だった。また、自分は父危篤から葬儀まで3日分休暇を取ったが、たまたま重要なイベント等入っておらず仕事への影響も軽微だった。これも、ご縁があった、おかげさま、ということなのだろう。市営葬儀場での葬儀を終えた際、式進行をしてもらった係員の方から、最後に「お疲れの出ませんように」という挨拶を受けた。このような言い回しがあるのだな、とこの歳になって初めて知った。

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平成30年大阪府北部地震(2)

平成30年大阪府北部地震の記事続き。地震当日からだいぶ経ってからの投稿のため、その後の報道等も含めての検証を中心とする。

まず今回の地震の震源について。当初はてっきり有馬・高槻構造線(阪神・淡路大震災を引き起こした活断層の延長線上にある断層帯)が動いたものかと思ったのだが、震源地はそれよりも若干南にずれていた。また、震源地よりも若干離れた茨木市内でも被害が大きかった。

180718_asahi地震から1ヶ月後の7月18日付朝日新聞の記事によると、震源では2つの異なる断層が別方向に動いたとみられるとの解析結果が載っていた。

その記事に載っていた図によると、震源から北寄りに向かって逆断層が、震源から西寄りに向かって横ずれ断層が動いたということである。この、西に向かって走った揺れが、茨木市内での被害につながったのではないかと思われる。

また、地震の翌日、6月19日付の毎日新聞の記事(有料)によると、地盤の軟弱さが揺れを増幅させたのではないかとの解説が述べられていた。以下その記事に載っていた震度分布の図だが、震源から近いところだけでなく、やや離れた場所でも震度6弱とされている地域があることがわかる。
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地盤について調べていくと、住所ごとに地盤の揺れやすさを示す朝日新聞の記事があることがわかった。これは東日本大震災を受けて作られたページのようだが今でも健在で、住所を入れると丁目レベルの細かい単位で、元々どのような地勢の土地だったのかと揺れやすさの指数を示してくれる。

これによって自分の住んでいる地域を調べてみると、意外にも「砂礫質台地」と表示され、それほど軟弱ではないことが分かった。そういえば自宅を建てる際、地盤のボーリング調査をしたが杭打ちは不要という調査結果だった。一方で、ブロック塀が倒れて女児が亡くなった地点の地盤を調べると、後背湿地で非常に軟弱と表示された。

Old_osakabayこれでふと思い当って、さらに大阪湾(というか大阪の海岸線)の変遷を調べてみると、大阪市住吉区が載せている資料(PDFファイル)の中に左のような図を発見した。これは縄文海進と言われる海水面上昇が起こっていた頃の海岸線(そのうち約5500年前のもの)で、現在の大阪平野は大部分が海の中に没しており、わずかに上町台地のみが半島状に付き出していた。一方で高槻付近を見ると、現在の淀川沿岸一帯はこれも海中あるいは河口のあたりとなっており、ただしそのすぐ北側に「富田台地」と書かれた陸地があった。先の地質を示すサイトで「砂礫質台地」と表示されたのは、たぶんこれだろう。

そういえば、以前に地元自治会の集まりがあった際、年配の方々が雑談しているのを漏れ聞くところでは、地質関係の学者さんが「地震に関してはこの町内は大丈夫だ」と言っていた、ということを思い出した。その意味するところは、たぶんこのことを指していたのではないかと考えられる。

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次に、大阪近辺の古地図(明治時代後半)をたまたま目にする機会があったので、高槻付近を改めて確認すると、まだ高槻市に合併する前の当時の村々が点在しているのだが、その中でもひときわ大きい集落となっている富田村は、先の大阪湾変遷で見た「富田台地」のちょうど南の縁の部分にあたるのだということが分かる。台地の縁は伏流水からの水を得ることが容易であり、だからこそ今でも酒蔵がある。

その一方、富田村から南東方向は、田畑と思われる平地が広がっているが、集落は見当たらない。おそらくは、ひとたび淀川や芥川、如是川が氾濫すれば水浸しになる低湿地だったので、田畑はできても家は建てられなかったのではないかと考えられる。しかし、現在はどこもかしこも住宅街となっている。この辺の話については、自然災害・地域防災対策支援センターというNPO法人のサイトに載っていた「大地震や大雨から守る 安全な地盤」-高槻市域で宅地・住宅に適した地盤の見分け方-という資料(PDFファイル)にも詳しく述べられている。

180620_mainichiところで、地震の2日後、6月20日に掲載された毎日新聞の記事(有料)によれば、今回の地震波は「極短周期」というタイプで、多くの家屋が倒壊した阪神大震災や熊本地震に比べると、家(1・2階建て程度の木造家屋)よりもブロック塀や家具の方が共振しやすい性質を有しているとのことであった。確かに今回震度6弱という強さにもかかわらず家が倒壊したという被害は聞かれなかったが、他方で屋根瓦がやられた家が多かったのはこのことが原因であると思われる。

ということで、いろいろ調べて見ると、今回の地震が震源地間近だったにもかかわらず、我が家では皿一つ割れなかったのは、これらのような背景があることが分かった。そもそも4年前に自宅を建てた際、最重要コンセプトは、来るべき南海トラフ巨大地震に耐えること、無傷は無理にしても、家にいて死ぬことはないこと、が最低条件であった(参考:本ブログ記事「新都造営の経過(その2)」にトラックバック)が、それに向けての格好の抜き打ち検査の機会にはなったといえる。秘策「制震テープ」は十分に機能していたようだ。

逆に言うと、今回の地震ぐらいでやられているようだと、「本番」の際は目も当てられない事態となることだろう。上に示したように、かつて海の底だった軟弱な地盤に、今や何百万人も住んでいるということをよく認識する必要があると思われる。

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